2017
12
Dec

音楽全般

僕がDTM(音楽)を始めたきっかけを整理してみた。

T.K.Works / フリーランス音楽クリエイターの上村(@j_k_vincent@tkworks1996)です。

今回は僕がDTMを始めるに至った経緯をお話したいと思います。

 

ピアノに興味があった幼少期

僕は幼少の頃からピアノが好きでした。
楽器というよりはピアノを弾くピアニストの指を見るのが好きだったんですよね。
鍵盤の上を滑らかに縦横無尽に華麗に駆け巡る、その美しさに憧れを持ってました。

 

自分もあんな風にピアノが弾けたなら、、と強く思うようになって、
「ピアノ教室に通いたい」と親に懇願したのですが反対されました。

 

実家は古くからパン屋を営んでいたのですが、長男の僕の将来はパン職人への道しか用意されてませんでした。
それがすごく嫌だったという思い出がありますね。
現役時代は父親は非常に頑固な職人で怖かった、、
「パン職人にピアノは必要ない!」、という理由で却下され、それ以上は何も言えなかったです。
大体のことは上記の理由で却下されることが多かったです。

 

念願の鍵盤楽器を手に入れる

願いは叶わなかったんですが、そんな自分を見かねてか母親が誕生日にCASIOの鍵盤をプレゼントしてくれたんです。
楽曲のカセットカートリッジが入れられるようになっていて、曲データを読み込ませると弾くべき鍵盤が光ってくれるそんな製品だったと思います。僕は最強の武器を手に入れた気分でした。伝説の剣を引き抜いた勇者です。
その日以来、鍵盤にかじりついて練習したのは言うまでもありません。

 

その後、小学5年の終わりから器械体操を習い始めたため(※器械体操の話はまた別で書きますね。)
音楽からは遠ざかってしまいます。

 

その後再度ピアノに戻ったのはだいぶ先の話になります。

 

高校卒業 専門学校中退

高校まで続けた器械体操を辞め、大学には進学せずに情報処理の専門学校に行くのですが、
高額な学費の問題でこの専門学校を半年で辞めてしまいます(1995年10月頃)

このタイミングでパン屋の道に進めと父親には言われたのですが、
どうしてもそのレールからは外れたかった。

 

自分の人生は自分で選んだ道を進みたい、と言う気持ちが強かったです。
多分幼少期からのトラウマみたいなもので反射的な拒否反応ですね。

 

地元のファミレスのバイト(iHOPという名前)に明け暮れるようになりました。(iHOP知ってます??)
アメリカの企業なんですが日本では長崎屋が業務提携してたファミレスです。
パンケーキとかワッフルが有名でした。残念ながら今は日本にはありません。

 

ピアノ練習を再開

再開したきっかけは48鍵のキーボードを友人から譲ってもらったのが始まりです。
またピアノを弾きたいな、という気持ちが高まったのはドラマ「ロングバケーション」の影響です。
あのドラマの中で流れていた「瀬名のピアノ」が弾きたくて。。弾けたらモテるだろう、という魂胆です。
ドラマの影響でピアノ始めた方も多かったですよね。

 

あとジョージウィンストンのLonging Love。これもモテそうという理由で(笑)
そんなに簡単な曲じゃないんですが、和音の音を間引く形で簡単にアレンジして雰囲気だけ彫刻の森美術館という感じでこれも練習曲になってました。

 

今でもそこそこ鍵盤は弾けるのですが好きな曲だけを弾いるだけで、全く基礎がないので「そこそこ」止まり。
楽器は正直得意じゃなく練習も好きじゃない、でも音は出したい、音楽を作ってみたいけど歌を歌いたいわけじゃない。
で、その解をくれたのがiHOPでアルバイトをしていた時に出会った同い年の友人です。

 

この出会い以来交流が続いてまして、事あるごとに僕の人生に深ーーーく絡んでいます。

 

レコンポーザとの出会い

当時使っていたシーケンサーソフトはカモンミュージックが販売していたレコンポーザ。
PC98 DOS上で動くもので制作環境としてはすごくシンプルなんですがかなり高機能でした。
初心者が扱うにはかなり敷居が高かったんですが、今思えばここから入ったことがすごく良かったと思っています。

 

Windowsだと複数のタスク(窓)を開いて作業ができますが、
DOSの場合には1作業で1画面なのでやりたいことに集中して作業ができる、そのシンプルさが良かった。
ショートカットとテンキーをひたすら使って行くんですが、おおよそ音楽を作っている作業とは思えない、、、
このソフトは数値入力が特徴でとにかく打ち込みスピードが早い、
僕はタイピングは早い方だったので相性はすごく良かったです。
楽器が弾けなくても音楽が作れる、打ち込んだ音がちゃんと鳴ったあの時の感動は今でも忘れられないですね。

 

レコンポーザはその後Windowsにも移植されて販売されていたんですが、
シンプルが故に使いやすかったレコンポーザが窓が複数あると複雑になってしまい
作業効率が著しく落ちてしまって、本来のレコンポーザの良さが無くなってしまったんですよね。。。

 

その友人には色々と教わりました、そもそもパソコンもそんなに詳しく無かったのでそこからでしたね。
DOSの使い方、ファイラーの使い方、レコンポーザの使い方、曲の作り方、etc…
専門学校を辞めてしまいバイト三昧だった僕はとにかく時間だけは大量にありました(笑)
大学生だった友人宅によく入り浸ってましたね、今思えば結構迷惑なやつです。

 

ゆいNET

当時はまだ今のようにインターネットも普及しておらず
パソコン通信(モデム)で草の根BBSへ接続して楽曲を公開するというやり方をしてました。
公開するBBSは色々とあったんですがその中でも最大だったのが神奈川県鎌倉市にあった「ゆいNET」

 

ここはユーザ数も最大でアップされたMIDIデータも大量、
楽曲を聞いてもらえるチャンスが多かったのと、
先人の打ち込みノウハウを吸収できることは初心者の自分にとっては最高の環境でした。

 

当初は作曲の知識は全く無かったので、まずは既存楽曲をひたすらコピーする日々。
友人からは耳コピが一番信用できると言うことで、
DTM開始当初から楽譜は一切使わず耳を頼りに打ち込んでました。
楽曲数は忘れましたが、かなりの量を作ってたと思います。

 

YAMAHA XG

確か96年の秋口くらいだったと思いますが、
友人がYAMAHAのコンテストに一緒に応募しよう、と言う話を持ちかけてくれました。
YAMAHAが発売している音源を利用して楽曲を作ってMIDIデータ応募する形だったんですが、
応募者楽曲すべてに楽曲評価をもらえるって言うありがたいコンテストだったので、
それならば、と思い制作することになりました。

 

ただ、僕はYAMAHAの製品を持っていなかったので友人所有のMU80を借りて制作しました。
今思えばちょっとインチキしてますが、、、提出した楽曲がこれです。

 

大量の楽曲の中から選考することを考えて、良くて最初の30秒くらいまでが勝負だろう、と思い
そこに一番インパクトがあるように狙って作ってたと思います。

結果的には最終選考(1037曲中18曲)までは残ったものの入賞すらできず撃沈したんですが、
審査員の冨田勲さんらが自分の楽曲を数秒でも聞いてくれたかもしれない、と考えるとかなり嬉しかったですね。

 

中田ヤスタカ!

僕が応募したのは97年のコンテストだったんですが、96年(第3回)のコンテストの入賞作品が雑誌の付録に収録されており、参考でどんな曲が応募されていたのかってことで聞いた楽曲が「XGroove」。

 

若かりし中田ヤスタカさん、才能おそるべし。。。
色々聞いた中でこれが一番お気に入りでした。

 

以前Twitterにも書いたんですが、
96年に続き97年も中田ヤスタカさんが最終に残っていて名前がありました、
「東京3000」どんな楽曲なのか気になります。
この年(1997年)にCapsule結成となっているので、この頃から今の時代を見据えてたのかもしれないですね。
そう考えるとすごいなぁ、と思います。

 

 

FM湘南ナパサ

地元平塚のFM湘南ナパサというラジオ放送局があり、
ボランティアで5年ほど番組制作に携わっている時期がありました。

 

自分は喋る方ではなくってミキサー、いわゆる卓を操作して曲出したりキュー出したりそういった方です。
自分たちで企画して番組を作ったりもしていたので、その番組で実験的にOPを作って流したりしてましたね。
いくつか楽曲は作ったと思うんですが、今残っている音源はこれだけです。

 

当時YAMAHAのEX5Rという音源とAKAIのDPS16を駆使して制作してました。
環境もWindowsになりレコンポーザからSingar Song Writerに変わってましたね。

   

 

その後

DTMのスキルを仕事にできないかなと数年もがいてみたんですが、
音楽関係の知り合いもおらずネットワークが乏しかったのもあり、この先どうやって仕事としてやっていけば良いのか全くわからなかったんですよね。
そんな状態で時間だけが刻々と時間だけが過ぎていく。

 

仕事としてやりたい、という意思はあっても自分に足りないものが多過ぎました。
自分は大学に行くこともなく、社会の仕組みもいまいちわかってませんでしたし。
そもそも仕事をするってどういうことか?根本的な疑問を解決する術が全くなかったです。

 

僕は完全にゼロスタートだったわけですが、
フリーランスになる上で社会人経験はすごく大事だな、と感じました。
仕事を生み出す方法はいくらでもありますが、結局は人と人のやりとりであり信頼関係がすごく大切、
継続して行く為にも信用を積み上げて、自分のネットワークをどれだけ広げられるか、
でその後が大きく変わってきます。

 

サラリーマンは数年で終わろうと考えていたんですけど、
タイミングが合わなかったこと、IT仕事が面白くなってしまったこと
などがあって、それから10数年社会人として生きることになります。
仕事の話はあまり面白くないと思いますが、機会があれば半生ネタとして残しておこうかなと思います。

 

DTMを教えてくれた友人は僕の人生のターニングポイントには必ず絡んでます。
ITの世界に引っ張ってくれたのも彼だったので、ITから楽曲制作の仕事へシフトチェンジする際にも
しっかり自分の意思を伝えておきました。

 

半生を振り返ってみるとあまり統一性はないなーって思うんですが、
やってきたことすべて無駄なことってなかったって思いますし、
何か大きな決断をする際に相談できる人がいるとやっぱり心強いですね (しみじみ)

 

それでは。
T.K.Works 上村敏仙

 

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